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真理 青年編 運命についてより

『「私の心の中にあるところのどんな想いや感情が、この事件を私にひきよせたのであろうか。」、こう自ら自分を省みる習慣をつけるものは幸いであり、反省して再びかかる理念感情を起こさねば、今までのような類似の辛き体験は出てこなくなるのである。すべて波長の類似しないというものをひきよせることはないのであるから、自分の心が一変すれば運命が一変するのである。』

 

自分の身に置き換えて咀嚼してみる。

私のそばに私の愛を求めて来たもの(愛犬)に、普段は彼はいつもそっぽを向けているのに、上の句を読んでいるときに私の元に来た。調子のいい奴めと思った。しかし、ここを見るとこれは我が身であった。自分に都合の良い時だけ、友達面をしてきたと思う。誰かの名言で「友達関係というのは絶えず関係を修繕しておくことが大事である」と言うようなことを言っていた。私はこれができていなかった。私は私しか見えていない。これじゃあ、いい友人関係を築けるはずもない。

 

私が今回の件でズレて先程まで解釈していたのは、私の元に愛を求めるもののために無条件に愛を与えることが必要か?と思っていたが、それは叶わぬと思っていた。誰それかまわず愛を与えることには私は抵抗がある。しかし上の気づきであるならば、今後は気をつけられるかもしれない。以後、気を付けよう。

生命の實相 第一巻より、口にする物と人間の関係

クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人はヒ素のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのはヒ素という物質の力が人間を殺すのではない。ヒ素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物を食べて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。(中略)

それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち「般若心経」にも説いてあるように物質の色声香味触法等の諸性質はすべて無であって、ただその背後に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」jまたは「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係を持ちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思っていたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚られるのであります。

 

 

 

 

 

 

「生命の實相 第一巻 聰説編 七つの光明宣言」より抜粋。

われわれが「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの「生命」大元の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶべきゆえんも、その本源である神を尊ぶべきゆえんも解らなくなるのであります。

 

「生命」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命」の生長にはぜひなくてはならぬ迷妄の自壊過程であります。この刺激や反省資料があるためにわれわれの「生命」は反省の機会を与えられ、浄化の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。だから「知慧の言葉」にも「苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛がたましいの生長にどんなに必要であるかということを知る者は苦痛でも喜べる」と書かれてあるのであります。

 

 

 

 

 

 

「生命の實相」の頭注版に序して。より抜粋。

現象としての生命は条件の変化によっていろいろのあらわれ方をする。すなわち生まれて生長し老衰し病み死する。すなわち現象生命は無常である。しかしかくのごとく移り変わるものは実在ではない。本当に実在するものは変化するものではなく変化するその奥にある常住のものでなければならない。変化ということが可能なためには、換言すればAがBに変化することが可能なためには、AがBに変化しながらしかもAとBとを通じて変化しない本体がなければならない。変化しない本体がなくて、Aが消えBがあらわれたならば、AとBとは無縁の別々のものであって、AがBに変化したとは言えない。AがBに変化しながら、その変化の奥に変化しない”常住の本体”があるのである。変化してあらわれているAとBとは現象であり、その奥にある”常住の本体”が「実相」である。

 

肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している実在としての生命を、わたしは”生命の実相”と名づけたのである。そしてそれこそが”人間の真物”であるのである。

 

昭和37年5月1日 谷口雅春